『ナガサレール イエタテール』—ユーモアとしてのユーモア

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このマンガの印税は、全額ニコルソンの生活費になります。







ユーモアは、悲劇に対する数少ない対抗手段です。
ユーモアは私たちを一瞬どこか別の世界へと連れていきます。目の前の現実と離れた、暖かいフィクションの中へと逃げ込めます。
ユーモアとは、目の前の現実から目を逸らす、一種の現実逃避の役割を持っているのです。

しかし、その現実逃避は”嘘”ではあれ、“間違い”ではありません。
辛い現実から一時的に逃れるからこそ、人はその現実に打ちのめされることなく歩を進めることができます。

『サラエボ旅行案内』——絶望への反撃


ユーモアや知性や「労働」は本来、抑制をうける種類のものだが、人びとにとっては「生き延びる」ための大切ななにかだった。


夜と霧


ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。苦しみの大小は問題でないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。


ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとはほんの数秒でも、周囲から距離をとり、状況にうちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。


このユーモアを失った状態の1つが、「リアル病」なのかも知れない。
「リアル病」とは、精神科医の安克昌が阪神淡路大震災の経験を受けて作った造語です。

心の傷を癒すということ


地震を体験し、今なお解体の進む被災地に住んでいるうちに、私は自分の価値観や感じ方が知らず知らず変化しているのに気づいた。ここではそれを仮に「リアル病」と呼ぼう。
地震による建物の破壊、身近にむきだしとなった生死のありさま……、それらはあまりにリアルな、疑いようのない事実としてある。圧倒的な地震体験や破壊された事物を前にして、人々は言葉を失った。さまざまな感情がわき起こっても、ことばでは表現できなかった。私は、ことばにすると嘘になってしまうと感じた。ことばを失わせてしまうほどに、リアルなものは情け容赦がない。そのことを私は思い知った。
私の場合、リアルな事態にとらわれる一方で、口先だけのこと、やたらに理屈っぽいことに対して拒否反応が起きる。
「そんなことばだけのことは、ひとたび地震が来れば崩れさってしまう」。
そう思えてしかたがないのである。

〜中略〜

このようにリアルなものを中心に考えることがいいのか悪いのか、私にはわからない。これも震災によって得た一つの「発見」といえるかもしれない。「リアル病」は空理空論におちいらない、実質的な考え方だからである。


だが、リアルすぎるのもどうかという気がしないでもない。リアルなもにはどこかうるおいに欠けることも確かだ。身も蓋もない感じがする。確かに瓦礫はリアルである。立派な家も地震が来ればただの瓦礫である。だからといって、人は瓦礫の中で生きるわけではない。
このようなことを、緑したたる仙台市で私は考えた。この町には美しさがリアルに存在していた。神戸の町が美しさを取り戻していくにつれ、私の「リアル病」も回復していくにちがいない。


この『ナガサレール イエタテール』は、津波に飲まれた実家を再建させるまでをコミカルに描く、ノンフィクションのギャグエッセイです。
その軽さは、このタイトルからも伝わるでしょう。

「震災×ユーモア」という構図としては、しりあがり寿の『あの日からのマンガ』も挙げられます。



すでに述べてきたように、ユーモアは悲劇への対処として有効です。

しかし、このマンガの持つユーモアはそれらとは違う趣でした。
『ナガサレール イエタテール』の持つユーモアは、手段としてのユーモアではありません。

このマンガの持つ”おかしさ”は、辛い現実を何とか飲み下すための調味料ではなく、ど真ん中ストレートのメインディッシュでした。



家が流されるだけでなく、祖母の認知症が進んだり母が病気になったりと厳しい現実は続きます。
しかし、それらもまたこのマンガの俎上ではネタとして昇華されています。

このマンガの笑いは「乗り越えるための笑い」ではなく、純粋に「笑うための笑い」でした。

読んでいてふと思い出したのは、お笑い芸人の「脳性マヒブラザーズ」でした。
実際に脳性マヒである障害者のふたりが、それをネタにコントを繰り広げます。

YouTube Preview Image

はじめは、「笑っていいものか」という疑問と焦燥感に何だか座りが悪くなるかも知れません。
笑かしにきているのだから、笑えばいいのです。
しかし、うまくそれに反応できないのは、笑い飛ばすためには自分がすでに持っているイメージを引きはがさなければいけないからでしょう。



このマンガ自体も、「ただギャグを描いているだけ」と言えるかも知れません。

ただ、そこまで読み手側が身構えなくても十分に笑える作品です。
その理由は、「抜群のセンス」と「マンガという距離」です。

まず、センスについては言うまでもなく抜群です。
1ページにいくつ笑いを仕込むんだ、というくらいしこたま笑かしてきます。



そして、素直に笑うことができるのは、これが「マンガ」だからという点も大きいのでしょう。
仮に、こうしたネタを本人の前で直接聞くとなれば僕には「笑わなければいけない」という強迫観念が生まれるでしょう。
それは、特別意識せずとも頭の奥からジワジワと染み出し、どこかぎこちなく笑顔を作らせます。

こうした強迫観念のやっかいなところは、ギャグが「本当に面白くても」中々振り払えないところです。
笑いにケチが付いてしまうのです。

ただし、これが本人を前にせず、自室で読むマンガなら話は別です。
何を使ってギャグをかましていようが、つまらなければ笑わないだけ。僕をぎこちない何かへ駆り立てるものはありません。
その事実が、このマンガへの笑いを気持ちよく肯定してくれている気がします。
面白くて、笑えるんです。シンプルに。

写真付きの解説もあり。


自虐ネタとも言えるけど、そう言いきってしまうのはあまり正確ではないと思います。
自分の悲劇を笑いに転化する自虐は、往々にして「自分自身がその笑いによって救われたがっている」ことがあります。
そうした現実からの脱出は、先述したようにユーモアが持つ力です。

でも、ニコ・ニコルソンからはそうした救済としてのユーモアをあまり感じませんでした。

メッセージ性がないわけじゃない。
ズキッと胸が痛くなることがないわけじゃない。

でも、そんな感情を置いてけぼりにするくらいただただ”痛快”なんです。

悲劇に始まり前途は多難。
さあ、あれやこれや湧き上るトラブルをニコルソンと一緒に笑い飛ばしましょう!



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