25時のバカンス

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ガラスの僕らに映る世界


火の鳥が描いていたのはなんだったのだろう。
手塚治虫の未完の名作、「火の鳥」。

僕は、”世界が見る人間”だったと思う。世界は、宇宙に置き換えてもいい。
火の鳥が見つめる、人間の美しさ、醜さ、愛、欲望、いじらしさ。
「火の鳥」の目線は世界であっても、フォーカスされるテーマは人間であったと思う。

そして、この「25時のバカンス」は、”人間が見る世界”だ。
人間が見つめる、世界の不思議さ、広大さ、どうしようのなさ、哀しみ。
僕たちはレンズにしか過ぎない。物語の焦点は”世界”で結んでいる。

でも、同時に、ここに出てくる人間は、人であって、人でない。
「虫と歌」に同じく、人間の殻を持つものばかり。
人でなくなったもの、人になったもの。

そんな歪な彼らは、曲がった鏡のように世界を不思議な形に変えて、僕らに投げかけてくる。

マンガは、絵の集合体ではない。
コマそれぞれに役割があり、それがつながることでマンガが成立してくる。
だから、接着剤のような、前後をつなげる緩衝剤としての、”遊び”としてのコマは必要になってくる。

なのに、この作品には一切の遊びがない。
視点の位置、セリフの選び方、テクニカルに使う吹き出し、一本の線。
全てが意図的で、ある種の緊張感が常にただよっている。

だから、読みすすめるのは、簡単じゃない。
複雑に入り組んだ世界観や、そこで交わされる言葉たち。
部外者でしかない僕らは、すごく主体的にこのマンガに取り組んでいかなきゃいけない。

でも、それだけの価値が、僕には十二分にあった。

市川の絵は哀しい。
僕らが哀しいと感じる時、それらの多くは共感に下支えされている。
相手の立場を想像し、自分のもとにたぐりよせて、仮想的に実感をして、ああ、哀しい、と。

でも、市川の話に、絵に、コマに、僕は共感しない。
共感するには、あまりに彼らと僕らの世界に隔たりがある。

でも、哀しい。

それは、絵を見て『美しい』と思ったときの感覚と似ている。
市川の世界に入り込んで、『哀しい』と思うわけじゃない。

哀しく思う絵ではなく、そこにあるのはただ、哀しい絵なのだ。

きっと、市川以外、この世界には入れない。
今回の「25時のバカンス」は、前作の「虫と歌」よりもさらに世界が僕らから離れている。
だから、誰にでもおすすめできるマンガではありません。

どこか遠くの誰も知らない世界で、人でない者がつむぐ物語。
僕らはどこまでいっても部外者でしか、ない。

すでに書いたけれど、このマンガにはスキがない。
だから完璧で、哀しい。

隙間なく埋まり、遊びのないものは、もろい。
全部が壊れないためには、少しの崩壊を許す必要がある。

だから市川の作品は、完璧さと、その完璧さゆえの脆さを僕らに感じさせる。
それらが混ざると、とても、哀しい。

作風が、どんどん、細く、するどくなっている。
それは、市川の危うさを強めている。
でも、できることならば、細く、鋭くなっていったその先端、極小値の作品を、どうか読ませてほしい。


関連:虫と歌


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