スポーツマンシップを考える

相手への、自分への、競技への、誠実さ。



「甲子園が割れた日」を読んで、個人的にスポーツマンシップについてもっと調べたくて手に取った本。

前半は筆者がスポーツマンシップについて歴史からや実際の事例に基づいて説明していて、後半はサッカーの岡ちゃんとかスポーツに関わる人たちとの、スポーツマンシップについての対談。
で、まぁ読み進めていて1番感じたのは、筆者はスポーツマンシップが好きなんだなぁ、てこと。もっと言えば、スポーツマンシップを美しく感じているし、それを強く求めているんだろうな、てこと。

だからこそこういった本を執筆するのだろうけど。
筆者は、スポーツはあくまで”遊び”だと説いている。
☆スポーツでは「ゲームをプレー(play)する」などの言い方がよく使われます。また、ゲームの参加者のことをプレーヤー(player)と呼びます。これを見てもわかるようにスポーツは”遊び(プレー)”の一形態です。

すっごく当たり前だけど、これは忘れてたなぁ。確かに、ゲームはプレーするものだ。
ただ、やっぱり僕が気になるのは、プロはそうも言ってられないだろう、てこと。
そして、”できた人間”というのは少ないということだ。

スポーツマンシップは負けた時に現れる、と本のなかで唱えられている。
死力を尽くし、負けた時、勝者に拍手を送れるか。笑顔を見せられるか。

もちろん、僕もスポーツマンシップは美しいと思う。
スポーツの世界大会を観戦していて、もし敗者が勝者を讃えていたら、きっと僕は感動する。

でも、同時に、悔しさを抑えきれず涙を浮かべ、その場にうずくまってしまうような選手には、より何か心を動かされると思う。

負けた憤りを勝者に向ける人は嫌いだ。
でも、自分の力が及ばなかったことに憤り、泣きながら胸の内で「このやろう」ともがいている人は、好きだ。
人間らしいじゃないか。弱い人間のいじらしさに、僕も共感してしまう。

それは勝利への貪欲さから生まれるものだ。
僕はその貪欲さや、その貪欲さから生まれる態度をできるだけ肯定したい。

でも、僕は、スポーツマンシップを求める態度も必要だと感じている。
この本は、そういった側面を大いに手助けしてくれる本だ。小中学生の子供にはとってもいい教材だと思う。

審判に対して取るべき態度も、うなずける。

審判の判定を尊重することは、他人の意見を尊重することと似ています。人は皆それぞれが自分の意見や心情を持ち、それに基づいて行動する権利があります。しかし、だからと言って私があなたの意見を正しいとみなし、賛成しなければいけないというわけではありません。

~中略~

同様に審判を尊重しながら、審判の判定に対して疑問を呈したり、あるいは間違いではないかと抗議したりすることは可能ですが、感情的に口汚くののしったりすることなく、冷静に行う必要があります。
「自分に対して、してほしくないと思うようなことを、他人に対してしてはいけない」という原則がここで活きています。自分が審判であるばらば、威嚇されたり、怒鳴られたり、侮辱されたり、体に物理的な圧迫を受けたりしたくはないでしょう。

ちょっと、作者が自分の理想を求めすぎているようなきらいはある。

後半の対談でも、最後に「結論、スポーツにはスポーツマンシップが必要。」としているけど、論拠が少し乏しいかな。対談者とのずれも垣間みれる。

でも、こういった姿勢は、著者がスポーツを社会的、ないし文化的に見ているからだろうな、てここにきて思う。

僕はどっちかって言うと、個人的なものとして捉えている。自分⇔スポーツ。
でも著者は、スポーツが社会に与える影響や、その存在する意味を、大事にしているんだろう。
そういった目線は僕になかったから、いい気づきになった。

筆者が何度も説くのは、スポーツは

「素晴らしいが取りとめもないこと」

ということ。
こういった態度は、すごく好きだ。

スポーツマンシップを考えさせるような事例紹介も豊富。
それを「難しい」として通りすぎてもいいけど、自分がその場にいたらどうするか、そういったことを悩みに悩みながら考え抜くと、自分の態度っていうのが鍛えられるのかな、て思います。

読みやすくて、スポーツマンシップを知る、考えるきっかになる本。
親子で読む、というのがお得かも知れません。



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